風力発電の悪意、弾圧の愉悦

正月のなんと忙しいことよ。近所の古刹、開山興国寺に年始の挨拶をして、由良守應の墓に花と線香をあげまして、いや、その前に我家にあるたくさんな神様に、ゆずり葉に持った雑煮を供えて拝む。昔は「竃さん」にも神様があると言うので、ゆずり葉を供えていた。信心深かったんやね。やっとPCの前に座っていつもの記事を書く。この10年、変わらないなぁ。時間だけが過ぎていく。風力発電の低周波被害で首が痛い。

頭が踏み潰されたように気持ちが悪い。それでも人々の私に対する視線の厳しさ、険しさはさらに増していく。それほど私が憎いか。彼らはあざ笑っていた。それが正月の出来事であった。Twitterなどにはさりげなく被害の否定が書き込まれている。灰色に見せかけた弾圧だ。サブリミナル効果。繰り返しが人々の心に刷り込まれる。行政や政治、業者の手先だろう。環境運動家には様々なタイプがある。

野鳥の会の様な自然保護団体、これは悪いわ。反原発団体とかね。以前はそんなに悪意は見えなかったのに、風力発電のアセスが始まってからは、急激にその正体を露わにしていく。日弁連の意見書などを見ると、これが弁護士の言うことかと思うのだ。しょせんは貧困ビジネスで暮らしを立てるしかない悪徳業界よ。風力裁判でそれがよく分かった。愛知県や下関の風力裁判の通りだよ。ひどい有様だ。

残念なのは、やはり人々の被害者に対する迫害だ。私はその代表的な存在だ。これまで、いや違う、私がその主人公だと言う被害者は多々いた。髪の毛を引き毟って、赤ベコになって苦しんだと言う人はまだ生きているんだろうか。何度も救急車に運ばれて、とうとうその自宅を放棄した人は今どうしているんだろう。役場は、県の環境課は、政治家は、一切の助けをしなかった。環境運動家は笑い転げていた。

もちろん地域の人たちもな。「聞こえない音がうるさいなんて、あるはずがない」そう言って笑いに来るのだ。全国で皆、同じ言葉を告げにくるからマニュアル化されている。田舎の百姓が、そんな言葉遣いをするかいな。簡単に洗脳されて風力の手先になって喜んでいたのだ。この辺の科学的な検証はミルグラムの『服従の心理』に詳しく書かれている。日本でも同じようにして、たくさんの人が自爆攻撃で死んだでしょ。

「お国のため」なんてさ、靖国神社ではないんだよ。簡単なトリックさ。死んだのは15、16才の少年飛行兵だ。騙しやすかったんだよ。前ページでは、近くの有田川町の風力反対を書いた。それが平野部には関心のある人はなく、むしろ土砂災害だと言葉にする人がいる。低周波被害、風車病だと言っても拒否される。もしその人が風力反対だと言っても、それは偽物だ。全国で、本当の被害の隠ぺいが行われている。

なぜなのかは明らかで、被害者を弾圧することが面白いのだ。そう言うことで体制派、政府の方針に協力していますとアピールしているのだ。汚い人間だよ。そんな人を見るたびに、社会不信、人というものがよく分かったよ、とアホらしくなる。君子危うきに近寄らずだ。今や、すっかり交友関係は無くなった。毎日忙しいからね、べつに困ることはない。人物破壊の工作だとは分かっていても、そんな人でしかなかったことを見ている。

風力被害者を無視する、あるいは嘲笑するだけでその人の価値が見えてしまう。社会からの断絶やね。こうやって谷口さんらは消されていった。2016年のことだから、もう誰も記憶には残っていない。いつまで言うてるんよ、といった言葉さえない。今も風力被害に苦しむ人はいるだろうにな。すっかり言葉をなくしてしまったのだ。私はもう畑地区には近づかない。キンキラキンだよ。彼らがそれが自慢らしい。

風力の被害など聞いたこともない、と。ついに由良町では、風力発電の被害を訴えることはできなかった。私一人が頑張っているけれど、封印されてしまっている。張り紙、チラシ、資料の配布、何でもやったつもりだ。それが逆に人々の憎悪に変換されていた。被害者でもな。ご自分が死ぬ寸前でも被害を否定していた。「関係ない」というのだ。すばらしいじゃないか。私とは人種も身分も違う。縁がなかった。

私の住む門前地区でも事情は変わらない。すっかり憎まれ役よ。一人暮らしだからね。とくに不自由はない。めんどくさいから聞き取りは止めているけど、門前地区に400人が住んでいたら、地形的にも4~5人の被害者がいて苦しんでいるだろう。よくもジッとして我慢しているね。言葉にすると私の様に村八分にされるから怖いんだろう。一時、脳梗塞が流行って、バタバタと倒れたことがあった。誰も気にしない。

早く死んでしまえよ、と私も思い始めている。「あんな所、早くダムの底に沈めちまえ」そんな言葉が聞こえてくる。かつてのダム建設ラッシュだった頃の話だ。同じ言葉を聞いた人もいるだろう。風力と同じことなんだよ。そこに住む人なんかゴミでしかない。土木技術者としてそんな場面を見てきた。技術者倫理、次世代倫理、かつてはそんな言葉があったのに。正月なのに暗い心境だ。

ニセモノのエセ反対運動を見ると、とたんに目をそむけたくなる。真剣にブレることなく、風力被害を訴える人はいないんかい。動物になった被害者たちよ。君らには助けてくれる人はいなかったんかい。小突きまわされて、ゾンビのように生きる。せっかくの人生をそれでいいと思っているのか。私は違うからね。世界の被害地域では、堂々と「Stop wind turbines !」と言ってるで。

私は、それが正しいことだと思っている。人間だと言うことを主張しようやないか。