年寄りしかない。

初めから気が付いていたけどさ、日本の風力反対?は年寄りばかりであった。若い人や学生などは全然いなくてさ、新鮮さに欠けること、骨董店みたいなものだったよ。多くは戦後の団塊の世代、今74才の人たちだろう。経済成長と言って、ホントによく働いた人たちだった。

私は彼らの世話になりながら仕事を覚えてやって来たと言ってよい。低周波音被害者の会の窪田泰と同じ年ばかりなのにすぐに気が付いていた。近所の古刹、開山興国寺の和尚も74才で、元気いっぱいで頑張らなくちゃ生きていけなかったんだよ、と言っていた。特徴のある世代よな。それが最近、急速に衰えていなくなっていた。

気が付いている人は多いだろう。同じような人ばかりだったのだ。わりと空っぽ。中身の詰まった人は見かけない。数が多かっただけなのだ。と言ってもなぁ、私の世代、s34年生まれの64才、風力発電に反対だ、なんて言っているのは私一人だからね。同級生はまだ生きているけれど、どいつもこいつも根性のない人ばかりよ。

上品ぶってさ。私の顔を見たら逃げていく。なんでなんやろ、と思ったものよ。彼らは何から逃げているのか。それほど幸せそうには見えない。コソコソと社会の片隅を伺うようにして逃げ惑っているのか。絶対に風力被害に触れることはない。これは同じ年だから痛いほどに伝わってくる。

それほど言ってはならない言葉らしいのだ。バカバカしいと思わないか。目の前の山々に林立する風車を見ながら、見てみぬふりをする。「関係ない」という。被害を訴えながら死んだ人を見ているのにさ。子供の頃からその人を知っているから、これほど詰まらない人間であったのかと落胆する。

私の一つ上の世代は自殺者が多かった。泣きながら酒を飲んで死んでいったと聞いている。単に酒におぼれて、というのではなくって、生きていくのに耐えられなかったようなのだ。橋の下で4、5人集まって深酒していたのを見た。全員がその後、次々と死んでいた。悪霊が憑りついたみたいだったよ。

同級生がなくなると、堪えますなぁ。さて、海外の風力反対運動を見ると、若い人たちの姿が目立たないか。何か彼らの生気が輝いているように感じないか。日本では見られない風景だと思わないか。私はよく、日本の自称・反対運動と、海外の抗議デモを比較して、その理由を明らかにしているけれど、それ以上にアメリカやヨーロッパの海外では社会全体の問題として真剣な思いを見せているのだ。

なぜ日本人にはそれがないのか、由良町を見てもその答えがある。社会システム、「黒い烏でも白いと言えば白いと答える」村社会の掟通りよ。誰がその掟を作っているのか。お上の言う通り。何も考えない。だから「考える会」というのか。日本人はホントに考えなくなった。

宗教とか、風土とか、地政学とか、理由はそれぞれあるんだろうが、添付したイラストのように、海外とは何たる落差よ。考えることができないのだ。ましてや抵抗など出来るはずもない。人間的な感情でさえ希薄になり蔑視、嘲笑に消えていく。お寒い風景が年末の忙しさに追われていく。知らん顔しかないんかい。

福島や水俣は世界的に有名なんやで。日本の代名詞なんやで。その意味を日本人は理解しない。原発も風力発電も危険だ。殺人兵器だと書いてある。日本政府の方針とは正反対よな。齟齬をきたすか。いや、それがストレートに地域社会になじんでいく。被害者に人権なんかない。ジョニーデップの映画『MINAMATA』のテーマだ。

水俣市は受け入れない。当然よな。日本人には何のことやら分からないのだ。それが悔しい。何も分からないうちに、ドンドンと風力発電が建設されていく。h18年の東伊豆町の風力被害から、どれだけの被害者が苦しみ消えていったことか。私は、たまたまその悲惨な人たちのことを見て『風力発電の被害』を書いた。非難轟々の嵐だよ。

「ウソつくな」と言われている。海外の抗議運動と比べても、これほどの落差を見ることはないわな。それでこんなページを書き続けているんだよ。べつに先駆者だ、パイオニアだ、なんて言うつもりはない。何が正解か分かっているつもりだ。

「アホよら、アホよら」と手を叩いて踊って見せる君たちこそ、何がそうさせるのか反省してみないか。ひょっとしたら歴史的な社会現象を体現しているのかもしれないで。勲章ものだよ。私はタダ風力発電の低周波音が苦しいのだ。