書きたくはないけれど、

我家の近くでメガソーラーの造成が進んでいる。一部に昔、火葬場があったところだ。50年ほど前まで使っていて、祖母もそこで火葬したことを覚えている。野焼きである。百年以上も使っているから、残渣の灰が小さな山になっていた。その脇に10個ほどの白いドッチボールのようなドクロが転がっていた。

古老の話によると、戦争の時に死んだ兵隊さんのものやろ、と言うことだった。76年前、由良港にアメリカのグラマン機が急襲した。百人ほどの兵隊さんが戦死したと言う。それを一旦、興国寺に菰で包んで積み上げた。今、そこには小さな平和の塔が建っている。意味を知る人は少ない。タブーだからね。

私が子供の頃は、怖い話として、よく囁きあったものだよ。トラックに兵隊さんの死体を積んで運んだ時、血の跡がずーっと続いていたとか。雨が降ってきて、死体の山から汁が浸み出してきた、とか。肝試しに夜、誘われて出かけたものさ。死体の数が多かったので各地に分散して火葬した。

その一つが今回の鍛冶屋谷だ。昔は鍛冶屋職人が住んで賑やかだったと聞く。鍛冶屋百軒は言い過ぎだろうが、そんな話も聞いている。今は誰も住んでいない荒れ果てた山中よ。しかしその脇道を通って私は畑仕事に行く。二丁余のミカン畑だよ。それで、ふと工事現場に目をやった。

重機で整地した後に、白いお骨が散らばっている。兵隊さんの骨は拾う人もなく、そっとそのまま放置されていたのだ。大きい人骨が見える。ワッ、と思ったよ。こんな話を近所の百姓にする。アホよら、といつもの言葉が返ってくる。風力発電の被害以来、私は村八分だ。十分だろう。

ひどい弾圧に遭ってきた。畑地区の被害者なんか苛め抜かれて、人災で殺されたと思っている。それをまた笑い話として人々が喜んでいる。なんでなんや? と言うのがこのページの趣旨だ。兵隊さんやからしょうがないわな、と聞く。しかし剝き出しの人骨の上にソーラーパネルが敷き並べられる。

工事している人にはもちろん分かっているし、近隣の住民もその風景を見ている。何かが間違っている。昔の言い伝えとして、人を殴ったりして迷惑をかけた人は、最後に手の部分だけ焼かずに放置されたと言う。火葬は、その家の人ではなく、近隣の住人たちが代わってやる習慣だったからね。

だから家族に迷惑を掛けたくなかったら、人に暴力を振るったらあかんで、と言われたものさ。その家の人は、燃え残った生身の手をそっと穴を掘って埋めたと言う。あるいは、火葬場の横の山には昔、土葬の習慣でそのまま残されている。何もないことはないわな。

30年ほど前のこと、関電の人たちと高野山の山々を現地踏査したことがあった。所々で現地の人の案内で、そう言った施設の跡を確認した。地図にその個所をマークしていく。つまりな、避けて通れ、となっていた。高野山周辺の山々には人の住んだ跡がたくさんあった。古い墓石もちらほら見たものさ。

我家も昔、戦争で負けて逃げた時にしばらく高野山で暮らしたと聞く。そんな歴史がここには詰まっていたのだ。あの関電でさえ、忌避すべきものを前提にしていた。それが人の道だと私は納得した。今回の事件は、どうもいけない。人にはやってはいけないことがあるだろう。

その山道を通るのは私か、ごく限られた百姓だけだ。昔は村山があったから、たくさんの人が柴刈りに通ったらしい。今は村山もないからな。誰も関心を払わない。今回も私一人が声にして訴えている。アカンやろうと。

コンクリートで覆ったら分からんやろう、と言うか。誰かその骨を拾って供養してやれないか。あの時、祖母は国防婦人会の会長さんで、たくさんの兵隊さんを我家に招いて慰労したと聞く。親父たちもたくさんの話をしてもらって聞いたらしい。その人たちの骨かもしれないからね。気になるのさ。

風力により社会が崩壊している。いや、その前にこんな地域だからこそ風力にやられてしまったんだとも思う。暗い洞窟の中に、影絵だけの情報に暮らす人々よ。戦時中のことだから、兵隊さんの家族でもその最後は分からないだろう。誰が最後に供養するのか。壊れてしまった社会に、今日も非難の風が吹く。