精神の平衡を保つ。

産経記事にしては珍しく文学談義である。芭蕉や小林一茶の本も面白いが、山頭火というのも別な意味で趣味人には好まれるようだ。大手の本屋へ行くと、特集コーナーがあったりする。押し付けられると、ちょっとなぁ、と鼻白む。それほどに人々は心の慰めが欲しいのか。たまたまかもしれないが、私より一級上のクラスの人たちの死亡率がとても高かった。

親しかった教諭にそのことを聞いたことがある。担任をしたそうだ。「本当に良い子ばかりで、あんなにやり易い子供たちはなかった」というのだ。年代によって、それぞれに特色のある生徒が集まる。私の年代は、というと、「特に何もなかった」そうだ。同じ地域に住み、生まれた時から知っている。職業柄、死んでいった生徒の話は重苦しい。

「みんな優しすぎたんやろうね」と結論する。そうだろうか?と私は批判的だ。ヘンな人が多いな、と私は思っている。無くて七癖、というから、人はみな癖がある。私のアパートにも、そんな人がいた。同級生のことをたくさん聞かされたものよ。気の小さな私には、わりと話しやすい人たちだったな、と思っている。

どちらかというと、「夢は枯野を駆け巡る」とか、淫羊藿を飲んで頑張る一茶がほほえましい。新潟の山々を歩いていて、淫羊藿がたくさん自生している斜面があった。一茶の本を読んで知っていたので、さっそく収穫して持ち帰って試してみた。ついでに自宅の裏庭にも植えてみた。いろいろやってみたが効果がない。

一茶も野生の淫羊藿がたくさん自生していたので利用したと書いてある。夢のある話だと気が付いていた。年とってから若い嫁を貰って喜んでいたのだ。ちょうど今頃は、小さな白い花を咲かせているから、よく分かると思う。エゴの木の白い花も爽やかだ。風力発電の被害では、被害者たちは散々に弾圧されて消されていった。

人は虐待すると人間性を無くして動物になる。ロボットのようになると言われてきた。受け売りの言葉で話すようになる。同じ言葉を、同じ順序で話すのだ。気持ち悪いで。そして死んでいく。周囲の人はそれを見て笑いものにする。地獄絵なのに、それが面白いらしいのだ。風力発電は精神を破壊する。

各地の自称、反対運動では「土砂崩れが心配だ」と言葉をすり替えている。恥ずかしくないんやね。水俣や福島でも同じことになっている。懲りないのだ。とうに破壊されている。社会の破壊とは、こういうことなのだと今頃になって思っている。