コラボで、という前に、

10年前、私が風力被害に関わり始めた時、「これまでの公害を見て、共通するものがあればコラボでやったらどうですか」と言われていた。なんせ一人で悪戦苦闘して泣いていたからね。味方を作りなよ、という意味だったんだろう。私は重症の風車病に苦しんでいたから、とてもそんな余裕はなかった。

大体、被害者は全員私を敵だと思っている。コラボ、連携など夢のまた夢であった。今もそうだけどね。ところが水俣も福島も、風力被害も同じことだと結論するようになっていた。人の思うことはみな同じよ。このページを書いているうちに、それが明確に分かってきたのだ。被害調査をしないでしょ。

被害を認めないし、被害者に対する弾圧は巧妙で、社会が特殊なオブラートに包まれていた。風力裁判なんてホントに酷いものだったのだ。それを人々は笑いものにして喜んでいる。なぜな?福島には原発に懲りて再エネがドンドンと進められている。当然被害が出る。背あぶり山風力など、各地で問題視する声を聴く。

しかし彼らは一様に私を憎んで拒否している。「迷惑なんですよ」と私に牙をむく。汐見文隆医師や窪田泰さんも、各地で同じように排除されていた。私も同じ目にあっている。全国の風力被害地では、初めから同じ対策が取られていた。youtube動画で、蒲公英工房で黒田街子さんと汐見先生の話題を話した通りだ。

すべては仕組まれた罠だった(morio yuraで検索してください)。当事者はみな分かっている。騙されているんじゃなくて、確信犯として被害を隠ぺいして行政や事業者に媚を売って喜んでいる。これが日本システムなのか。弾圧する方は簡単よ。居丈高にこき下ろす、権力の末端として自信たっぷりだ。

地域の住民もやがては少数の被害者を笑いものにして勝ち誇っていた。「風力の被害など聞いたこともない」と。まったく同じことは水俣でも福島でも、何回も聞かされたものよ。まったく同じ仕組みであった。たぶん人々は何でも知っている。原発を作るとき、反対だ、賛成だ、と賑やかにやってるでしょ。

つまりそれだけ原点を持っているのだ。そう簡単に忘れられるかいな。由良町の周辺には三か所も原発計画で騒いでいたからね。今になってやっとその意味が分かったよ。やはり年を取らないと分からないことはある。推進派は今も懲りずに御坊発電所の横に原発や中間貯蔵施設を作るんだと固執している。

地域活性化だ、町の発展だ、と言ってもその言葉の空しいことよ。リスクの受容義務だと言う。アホ抜かせ。コラボでやりませんか、という前に、何が悪いのか、と事実を明らかにする必要がある。添付した、この記事の酷いことよ。言葉を少し変えれば、福島になり、風力発電になる。

そしてな、モジュール原発だ、小型原子炉だ、と言っては、あたかも事故の可能性はありません、と繰り返すプロパガンダのアホらしさよ。結局、被害の構図は何も変わってはいないのだ。被害地は特殊な環境に閉ざされる。まるで人間牧場だ。考えることのできない「考える会」。皮肉なものよな。

最近ではスケープゴートにされる人もいなくて黙って死んでいく。誰かが抗議してくれればいいのにと期待する代理人症候群だと言う。市民的な勇気、そんなものないわな。環境テロだよ。日本だけ、「Stop wind turbines !」(風力発電を止めろ)という言葉がない。洗脳だけじゃない。

人間としての意識が低いだけなのだ。私は違うからね。自由に生きていきたいと思っている。