「無関心」の社会

「関係ない」というセリフが聞かれ始めたのはいつからだっただろうか。それまでは何にでも関心を持つ、アンテナを立てて社会の動きを感じ取る、なんて言葉を聞いていたものだ。今はコロナ禍で、少しはニュースを見ていないと命にかかわるから、マスクとかワクチンのことに人々は関心を集めている。

コロナ病は確実に社会を変えている。しかし「無関心」はますます我々の意識に深く根を張り、社会を覆いつくしているようだ。ご都合主義だけどな。そこでこの記事が面白い? と感じたのだ。「デモクラシーからの自由」だという。矛盾しているから一般の人には分かりにくい。

いや、だからこそ人々は「関係ない」と言うんだろう。社会の転落だ、と私は思っている。私も議員選挙を4回やったから、人々のアホらしさをこれでもかと見たものさ。人々は自由どころか、奴隷、囚人になる道を自らの意思で選んでいた。風力発電の被害を訴えることで、私は地域社会から村八分にされ罵倒されていた。

被害者たちからもコテンパンに拒否されたから、民衆の敵として、こんなアホ役もなかった。まぁ、まだ生きて息をしているから、死んでいった被害者のことは悪く言わないでおこう。私よりおバカさんはたくさんいたということだ。先日も落選した元議員さんが、旗を持って、マイク片手に演説していた。

ちょっと立ち止まって聞いていたけれど彼が何を言っているのか聞き取れない。その姿を見て、私も深く傷ついた。これはイカンな。私は違う。関係ない。そう思ったのだ。もともと彼とは何のつながりもなく話したことさえない。自然エネルギーがどうしようが、原発が必要だとか、直接私には関係のないことだ。

人の思うことは大体同じよ。だから誰も聞く人はいなかったのだ。前ページで紹介したように、風力発電の被害は確かな情報だ。それでも日本の人々は受け付けない。関係ないのだ。被害者も関係ない。ウソつくな、というシンボルだ。水俣病でも福島の原発でもそうでしょ。

海外の識者から見ると、それはもう奇怪な、特異な社会だとみることだろう。江戸時代の丁髷の時代と変わらない。風力裁判なんかそうだったでしょ。人々は大喜びだった。被害者も加害者もな。まさに「関係ない」だった。

テレビで政治家の言葉を聞いていると、無知、操り人形、アホ、と思わないか。とくに再エネで脱炭素社会を推進するという。彼らの言葉を聞いていると、とてもマトモだとは思えないのだ。「関係ない」と私たちは思っているのか。