金鉱の上の貧者

アフガニスタンの記事か続いている。コロナウィルスもすごいけど、バイオレンスな劇場型ニュースの方が胸躍るではないか。ランボーの映画みたいだよ。今日の記事には、アフガンには天然ガスなど、豊富な鉱物資源がある、と書いている。なんかヘンな話やね。アメリカは、なぜそれを開発しなかったのか。

あの貪欲なビジネスの世界で、アフガン人もそれに気が付くはずなのにね。農業政策も失敗というか、成果が上がらないんでしょ。これも周辺国を見れば、技術的な情報を含めて、なぜ彼らは仕事をしないのか、という疑問になるのだ。テレビなどを見ていると、彼らも普通に携帯電話を持っている。情報がない、のではない。

「なにもしてはいけない」みたいな、呪い、呪縛があるのかもしれない。隣国のイランやパキスタンは賑やかにやっている。だから、なんかおかしいでしょ。由良守應は岩倉具視の欧米視察に同行した。岩倉の日記には、守應に案内されて、パリやロンドンで、劇場などの繁華な街中を楽しんだたと書いてあるらしい。

ヨーロッパ旅行は初めてではなかったのか。言葉はどうしたんだろう、と不思議な感じがする。明治5年のことだ。まだまだ封建社会が残っている最中のことだよ。西欧文明を貪欲に取り入れて、日本に持ち帰る。そんな金は、いったいどこにあったのか、と思うのだ。しかし貧乏タレの田舎者には、それが面白かったに違いない。

たくさんの物語が私に伝えられている。あの欧米視察に付き合った連中は、みなそうだったようだ。有名人ばかりよ。守應は名もなく裏方で走り回っていた。大蔵大佑だったからね。同じように、アフガニスタンにも、そういった人がいるだろうにと思うのだ。ナイジェリアの女学生と話した時、ボコハラムのイスラム軍に拉致された人々をどう思うか、と聞いたことがある。

「どうって?」どうも思わないようなのだ。私の質問自体が分からないと言いたげだったものよ。やはりイスラムの世界は違うのか。アラビアンナイトの夢の世界か。シンドバットの大冒険は、だからこその吐け口か。今回のアメリカ軍の撤退は、現実を見せてくれたのだ。さらに私の訴えてきた風力発電の低周波被害よ。

これだけの被害を見ながら、なんで誰も抗議をしないのかと、不思議でいっぱいだよ。だからアフガン人や、ナイジェリアの彼女を笑うことができないのだ。日本人だって、同じ軛(くびき)で社会的なコントロールで生かされている。「言ってはいけない」あるいは「あの人は精神疾患」と決めつけられて消し去られている。アフガンの処刑と同じなのだ。それがお祭りになって、人々の娯楽になっていることも。