昔陸軍、今、風力

こんな言い回しも、今はあまり聞かなくなった。無理と分かっていながらの戦争だったのだ。この新聞は日共の悪口を多々書いている。私にはどちらも、そうだね、なんて気持ちはない。風力発電のことを記事にしているから利用させてもらっている。そのことでさえ、私とは考えが違うから、何度も、もう購読を止めるわ、といったことがあった。

あれからもう10年も取っている。けれど考え方の相違は変わらない。たまたま近所に憲兵のおっさんが生きていて、なんかヘンな感じ、だと思っていた。祖母は国防婦人会の会長さんだったので、わりと上手く世渡りしたようだ。祖母の実家は楠木正成の子孫だから、菊水紋のデザインがあちこちにある。先祖の遺徳のおかげだろう。

大叔父たちは満州などに出かけていた。稼いだ、とも聞いていないし、戦闘に参加したこともないだろう。様子を見に行っただけ、だと私は思っている。アメリカに渡った人もいて、サクラメントで病死している。当時は旅行するのも命がけよ。私の元上司の関本氏は陸士卒の関東軍将校だった。実際に銃を持って戦闘をしたらしいが詳しくは聞いていない。

頭を低くして掛け声だけかけていたとか言っていた。この「戦跡の栞」を見ていると、日本人には何の罪の意識もない。無邪気なアホよ。大阪のブックセンターで、同じ本を何度も見ているから、大量によく売れたんだろう。日本人のアホさが分かるガイドブックだ。最後の写真は、戦後の我家の風景です。赤貧、洗うがごとし。祖父母と親父たち。

春なのか秋なのか分からない。親父は大学受験に失敗して百姓をすることになったと言っていた。勉強が出来たそうで、英単語など私よりよく知っていた。三男坊だからアメリカへ行きたかったんだろう。陸軍の酷さは身内から聞いたことはない。あの関本部長でさえ、酒の席でさえ言葉にしなかった。私は恵まれた環境だったのだ。

しかし年を取るにつけ、何があったのか、徐々に分かってくる。昔陸軍、今総評、とか。無茶苦茶やな、と思うとき、人はその言葉を思い出す。戦争の狂気は、言い訳を許さない。それをまた日中友好だと言って、ノコノコと中共に媚を売るんだから見られんわな。風力発電事業も同じことになっている。風なんか吹いていないのに21基の風車が勢いよく回っている。

風力発電が発する低周波被害で、たくさんの被害者が苦しみながら亡くなった。役場や県や環境省や、政治家、議員に散々に助けを求めたけれど、誰一人相手になってくれるものはいなかった。笑いものにされて排除されただけだったのだ。新聞やテレビも同じことだった。新聞記者の酷いことよ。戦時中の新聞と同じであった。

記事にあるように、殺された人は元に戻るかい? 風力被害でも、あれだけ由良町役場に助けてくれといったのに、そして苦しみながら死んだのに、被害の報告は一件もありません、というんだから大したものよ。h19年の伊豆や伊方の風力被害の時もそうだったけれど、今、各地の風力反対運動でも、同じ被害隠ぺいの仕掛けが堂々とまかり通っている。

陸軍顔負けよ。糞にたかる蠅のような環境運動家たちのきれいごとにも胸が悪くなる。結局、弱者を見つけては虐待して喜ぶというサモシイ根性が環境運動にすり替わっていた。「私たちは土砂崩れが心配なんです」と。電気仕掛けで回しているだけの、演出の風力発電に、自然エネルギーだ、脱炭素だ、と受け売りのキャッチフレーズだけが通り過ぎていく。

ディストピア。地域の人々も被害者の弾圧に大喜びだ。泣き叫びながら死んでいった被害者を見て面白くてならなかったのだ。この記事にも中国人を殺して平然とする日本兵が取り巻いている。同じことを各地の風力発電は仕掛けをもって再現したのだ。