土砂災害と言ってはダメなのか、という風力反対運動の現実

添付の記事は10年前の風力被害を報じたものだ。ここにはまだ土砂災害の言葉はない。麓の用水路に土砂が溜まって難儀していることはあっても、それが原因で人が頭痛や目まいに苦しむことはなかった。風力被害の原因は明らかだったのだ。

それがいつの間にか全国で「風力発電の被害とは土砂災害だ」と叫ばれるようになる。主に風力反対集会などで使われたスローガンだ。徐々に、風力発電の評判が伝わるようになって、被害を訴えるものは精神疾患のもの、障害者だ、という論理が難しくなってきたんだろう。

もちろん今もそういった差別用語は笑いと共に確実な情報として定着している。低周波被害は頭をやられるから、被害者を弾圧すると無茶苦茶な有様になって、何が悪いのかが歴然とする。被害確率の100人に一人か二人のことだ。行政の言うように、政治家の命令通りに、コイツをやってしまえ、ということになる。

例外はなかった。チームを作って組織的に作戦するからね。だから「土砂崩れが~」という目的は二つある。一つは低周波被害を訴える被害者への弾圧。我々の考え方は違うんだという圧力だ。もう一つが建設業にもっと土木工事を回してほしいという社会的な合意だ。

もちろんその根拠はない。もともとが地球温暖化というイベントだから、環境運動家がいいように物語りを論じる。ウソばっかりだが、彼らはそれが自己実現の場で楽しいのだ。宗教と同じことだ。社会活動やっていると思い込んでいる。

私は各地の風力反対運動から総スカンにされている。最近も3人、4人の人から「私たちは土砂崩れが心配なんだよ」と吐き捨てられた。よほど私の低周波被害の訴えが嫌いらしいのだ。平野部に林立する巨大な風力発電の被害を見てもそう言っているんだから、風車病に苦しむ被害者なんか目じゃないわな。

もちろん海岸に建設されている風車に対しても、絶対に低周波の言葉はない。大体、風力発電の低周波を測定することはない。水俣病の時と同じだ。計ってはならないのだ。彼らが、いったい何者であるかはその行動を見れば分かるではないか。

あたかも風力発電を心配する風を見せながら、近隣の風力被害者をダシにしながら、彼らは環境運動を楽しんでいるのだ。いや、合意形成という環境政策の中で役割を果たしているのだ。低周波被害者の会の窪田泰さんは、そんな彼らを「嘘つき」だと非難した。私も同じ気持ちだ。

彼らは風力発電の低周波被害者が苦しんでも、亡くなっても、引っ越していなくなっても、知らん顔している。むしろ笑っている。ひどい連中だよ。彼らの正義は、これで社会参加しているくらいのものだろう。被害者に対する優越感とか。私は各地の風力被害者たちの弱さ、だらしなさに腹が立っている。

ヒツジにされたら、もう人間じゃないのだが、それでも私のように被害があれば止めてくれ、と訴える気持ちはあるだろう。海外では、堂々と被害者たちが泣いて訴えているではないか。どうせ死ぬのなら、そのついでに原因を言ってやればよいのに、と由良町の被害者を見ながら思ったよ。

癌の原因になったり、その症状が悪化する原因なんやで、と言ってみたけれど、誰一人として聞いてくれる人はいなかった。風車病の3冊の本は、今はほとんど読まれない。きわめてマイナーな情報誌になっている。政府のプロパガンダ、宣伝合戦は社会を呑み込んでしまう。

弾圧するものは表彰される。被害を訴えれば逮捕される。恐ろしい時代になっているんやで。