戦争は必要なのか。

矛盾という言葉は、中国の故事で、論理的におかしいことを意味するものだと理解している。ところが今日の産経記事では、どうもそうではない現実の歴史らしい物語が紹介されている。国際政治だから生々しい。記事にはないが、私はすぐに日本の真珠湾攻撃を思い出した。

守っているだけなら、いずれ攻め滅ぼされてしまう。ウイグル、チベット、モンゴル、それらの地域から聞こえてくる悲惨なニュースが既にある。さぁ、日本よ、立ち向かえ、というわけだ。大変な扇動記事だよ。たまたまヘロドトスの『歴史』を読んでいた。

彼らは長い歴史で戦争に明け暮れていたのだ。今もその地域では戦争ばかりしているではないか。正義も歴史もあったもんじゃない。日本には鎌倉時代に元寇の歴史がある。大陸側から攻めてこられたら、やはり同じように戦うだろう。それはアメリカに言われたからではない。

日本人の持つ大和魂だと信じたい。最近、コロナウィルスとか、地球温暖化だ、再エネだ、と恐怖心を呷る政策、ニュースが溢れている。人々を同じ方向に向かわせるための全体主義だと私は見ている。風力発電の被害なんかすごいからね。

社会が、これほどまでにコントロールされて、被害者を弾圧して喜ぶ有様なんて、普通ではあり得んわな。国の方針として、「反対するものは精神疾患のもの」とか、警察による取り締まり、とか、人々が気が付かない所で言論統制が行われている。私はそれを社会の破壊だと書いてきた。

ヨーロッパでもアメリカでも、アジアでも、敵が攻めてきたら防ぐ手はない。ボコボコにやられるだけだ。被害者にならないように逃げるので精いっぱいだろう。「兵を一日動かすために、一万日これを養う」だったか、ある程度の戦闘集団を確保しておく必要はあるだろう。

ただ、内部から浸食されていては話にならない。76年前、あの戦争で我々日本人はどれほどバカを見たことか。スパイ、工作員は、こんな和歌山の由良町にもいたらしいのだ。今ならアメリカであれ中国であれ、誰が来たって、「さぁ、どうぞ」、と政治や行政は媚びを売ることだろう。

風力被害者を弾圧する光景を見ながら、私はそう確信している。