明治の気骨

由良守應が陸奥宗光にどのような経緯で交遊することになったのかは聞いていない。宗光は和歌山藩の高級武士だし、紀州頼宣に付けられた家臣団の末だろう。それが坂本龍馬の海援隊に参加して、幕末のきわどい政略を潜り抜けている。守應は藩を追放されて京、大阪を密偵として探索したというから、この辺から伊藤博文らとも会う機会があったんだろう。

安政の大獄で生き残ったおかげで、明治維新に向けて思わぬ世界が開けていく。湯浅商人など、たくさんの支援者がいたらしい。商売人は、決して無駄な投資はしない。彼らは時代の波に乗り相当な利益を得たと聞いている。浜口梧陵、菊池海荘など名を残した人もいる。皆さん欲の深い商売人なのだ。竜馬のように手紙一つ残されてはいない。大した人たちよ。

宗光は東京で、守應邸に住んでいたという。清水御門前の4291坪だ。どうしてこんな大それた宅地を手に入れたのか、政治力だけでなく、カネがあったのだ。二階建ての馬車を走らせて大儲けしたと聞いているがそれだけではあるまい。湯浅商人の話では、今も見返りが少ないと不満が伝えられている。宗光はあの通りやり切ったからね。

宗光の引退と共に、守應も由良に帰って、余生を送った。ある出版社から電話の問い合わせがあった時、陸奥宗光について何か話が伝えられていないか、との質問に、「それはないなぁ」と返事した。ただ、明治になってから山形の刑務所に宗光が収監された時、三年も共に、そこで暮らして解放に力を尽くしたという。獄吏たちにはたくさんな心づくしをしたという。

羨ましい話よ。私もこんな友達が欲しい、刑務所まで付き合ってくれる友人がいたらと思う、と話しておいた。風力裁判では、誰一人として私にかまう隣人はいなかった。この差は何だろうとわが身の不徳を思ったものよ。成り行きだから、しょうがなかったんだけどな。谷口さんの言うには「人というものがよく分かったよ」と何度も私に伝えてきたものだ。やはりその局面になると、いかに人がダメなものかよく見えましたで。

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