学びて思はざれば、即ちクラシ、

安岡正篤の本が面白くなって読んでいたころ、知人から、「それ宗教やで、その通りにしたらうまくいくとは限らへんで」という忠告を受けた。一回り年上の人からの話だったので、そんなものかいな、と思ったことがあった。30年経って、今思うに、その通りやなと振り返っている。

記事にある論語でさえ、面白いこと書いている、と思っても、実際の生活では屁理屈になることも多々ある。新約聖書でもそれは同じで、あくまで「お話」と思っておいた方が無難だと気が付いている。「学びて思わざれば・」の節は中学の古典の授業の時に知った。親父たちが使った古い教科書がまだ残っていたので、同じことを教えているんやな、と思ったものよ。

昔の教科書の方が、戦前のものの方が、真剣に書いてある感じですけど。イスラム世界のことは私もよく分からない。何人かのムスリムと、我が家で酒飲みながら話したけれど、ISやボコハラムなど、あまり被害とは考えていないようだった。それを学んだところで、じゃぁ、彼らを尊重するのか、となると現実はそうもいくまい。

安岡正篤は20冊ほど読んだけれど、あれ以来見ていない。終戦の詔に、「時運の赴く所」が、実は「大義により」であったとかいう話ぐらいか。三島由紀夫と同じで、エリート官僚から物書きになったという。共通するものがあるようだ。時運であれ、大義であれ、一般の人々にはどうでもよいことだったのだ。政府に言われたとおりに踊らされて真面目に死んでいく。

「海ゆかば」の歌なんかいまだによくかかっている。日本人の心に、よほど合っているんだろう。私は違う。ダメと分かっていて、それでも我慢して死んでいくしかないなんて、そんなバカなものがあるものか。風力発電の被害では、最初からダメだと分かっていながら、被害者を弾圧して、全国にその被害を拡散させた。低周波被害が原因であることも分かっている。

海外では、たくさんの抗議運動や調査研究が進められている。メディアも被害を報道している。インターネットで検索すれば簡単にみられる話だ。私は、毎日のようにtwitterなどで海外の風力反対デモなどをツイートしている。そしてこのページの紹介をしている。それでも各地の環境運動家たちは「土砂崩れが心配です」と繰り返すのだ。

風車病に苦しむ被害者を前にして、「風力発電の被害とは、土砂崩れのことなんだ」と断言する。ものすごい地域対策よな。被害者に対する拒否があるから、そこには「学ぶ」とかいう機会はないんだろう。ご自分が優位に立ったことの喜びと、弱者となった被害者を蔑む企みに打ち震えているのだった。風力裁判がそうであった。

「思いて学ばざれば、」と次の節までいかないのだ。これまで私は、たくさんの人に直接、この被害を訴えてきた。分からない、知らない、関係ない、まったく無視、そういったことだったと思う。全国規模で、被害者に対する思いやりなど、誰にもなかったのだ。伊豆や伊方でさえも、当たり前だが、風力被害を論じる人は既にいなかった。

「土砂崩れが~」という人はたくさんいたけどね。悪党ばかりよ。善悪の基準がない。宗教心の無くなりかけた私たちに、もってこいの被害になっていた。ISやイスラムと同じ心理なのだ。コーランの教えに基づいて、地球温暖化に資するために、と。古典は我々に知恵を授けてくれる。大本営発表のウソを思い出そう。

水俣病やイタイイタイ病、放射能被ばく、嘘八百がまかり通っている。被害があれば抗議しようやないか。