ハスラーじゃないんだよ。

産経記事を見ていて、異端とか、詐欺師とか、そのような人物が後日に社会の宝となった例を書いていた。少し違うな、と私は見ている。彼らはそれが真実だと信じていたのだ。NHKドラマ『青春を衝け』でやっているように、幕末、各地の若者はなぜか剣術の稽古に励んだという。

由良守應も近所の悪ガキを集めてはチャンバラに夢中になっていた。その中では守應だけが牢屋に放り込まれたり、追放処分を受けたりして難儀をしている。また東京の千葉道場で免許皆伝をもらうまでに腕を上げている。京の勤皇公家、庭田大納言にその質朴を愛されたというから悪い部分はそれほどでもなかったんだろう。

由良町門前村では、当然変わり者であった。人は失敗というかもしれない。しかし世間の目を気にして、自分の考えも隠して生きるなんてことはできるもんじゃない。我家は、家柄を自慢するから没落した、と何度もあちこちで聞いている。私のホームページでも、これまで何度となく「我が家は旧家です」と自慢してきた。

このことに後悔はない。やはり私は由良の血を正当に引き継いでいる証拠やな、と笑い話として感じている。前ページでは、脱炭素ということで、石油や石炭が使えなくなる事態になるらしい記事を記載した。もちろんそんなことあるはずがない。まぁ、できんわな。それと、いつものように風力発電の低周波被害だ。

海外では散々に批判の的になっているのに、日本のエセ反対運動では、ただひたすら「土砂崩れ」を繰り返している。被害者を目の前にして、その人の訴えを直接聞いて、しかもその人たちが苦しみながら亡くなっていくのを目の当たりに見ながらのことだ。彼らは被害隠ぺいの仕掛けだから、業務上の仕事でしかないのだが、それを見ているのは私だけではあるまい。

なぜ誰も風車病に苦しむ人を助けようとしないのか。笑いものにして喜んでいるのか。それが私には我慢のできないことであった。つまり私も確信をもって、自分の信念をいつの間にか持っていたのだ。成功とか、称賛とか、そんなものではない。人としての義務だと思ったのだ。泣いて頼まれたからね。

誰も言わないから、それなら私が言わせてもらおうということだった。過信や無謀ではない。人として当たり前のことをしてきたと信じている。海外の抗議運動や、イラストの抗議を見れば彼らの正義感が分かるでしょ。私にとっては正解は初めからあったのだ。ところが日本では水俣病方式で被害は認めない。

水俣学とか水俣宣言とか、そんな言葉にされるんやろうね。ヒツジにされた被害者たちは、いったい何だったのかと思うのだ。記事にある田中一村、カリコ博士のように、まだまだ時間のかかることなんだろうか。日本人のアホさが、また一つ証明される。