信仰の山に風車を建設するということ。

低周波被害者の会の窪田泰さんと話していて、山形の出羽三山の風力計画中止ニュースは、なんかヘンだねと議論しました。というのも山形には、すでにたくさんの風力発電が民家の周囲に建設されていて、低周波被害が明らかになっているからです。

風力被害者、低周波被害者になると頭痛や目まい、体のだるさや、辛んどさで生活が一変します。原因は何か、当事者ならすぐに分かることです。それが出羽三山の風力反対の気運の時には、「信仰の山だから」、「観光資源」といった言葉で早々に中止になったのでした。御用学者や御用運動家がなくてよかったな、と私は思いましたよ。

まるでフランスのモンサンミッシェル周辺は、風力発電の建設禁止区域だ、というのと似ているなと思いました。

それでもやはり近隣にはたくさんの風力被害者がいて、有害な低周波に苦しんでいることでしょう。なぜ、この地域の人は風力被害者を助けろ! とは言わないんでしようか。海外では、どこでも、アメリカでもヨーロッパでも、「Stop wind turbines ! 」と言って抗議してるでしょ。日本だけ、なんで被害に苦しむ人を無視して、いやむしろ弾圧を加えて黙らせているのか、それがおかしいのだ、と、私は抗議しています。由良町で、その現実を見ましたから、決して山形のことだけではないんですけどね。

信仰の山に風力発電を建設する。私もまさかな、と思いましたよ。

この写真は印南町の秋葉山です。周囲の山々よりひときわ高くて、てっぺんに上ると、さぞ見晴らしがよかったんでしょう。頂上には小さな祠(秋葉神社)があって、地域の人々の心の依り代、仲良くするための仕掛けであったと思います。私はこの山に登ったことはないけれど、たぶん参道(山道)が整備されていたでしょう。

それが今では巨大な風車が頂上に建設されてブンブンと回っている。とくに信仰のためではないにしろ、地域の人々の憩いの場が、秋葉山神社が消されている。地域社会には、もう必要なかったんやね。

同じことは由良町の雨司山にもあって、やはり由良町で一番高くて、50㎞離れた和歌山城が見えたと言われている。小学生の頃、遠足で登った時、山道は整備されていて、やはり頂上には祠が祭ってあった。

由良町では、この雨司山は避けて風車が建設されている。遠くに見える尖んがった山だよ。周囲は風車だらけだけど。でも今は雨司山に上る人は誰もいないやろう。金毘羅山も近くにあるけど、お祭りがあるとは聞かない。地域の繋がり、信仰の山、参道の整備に集まって汗を流す、なんてことはもうないわな。

風力計画がある前から、地域社会はすっかりと廃れていたのだ。だから信仰の山に風力発電ができようと、誰かが被害に苦しもうと、「関係ない」と人は言うようになったと私は考えている。それに地域には必ず非情な協力者がいた。行政の手先だから、誰も対抗できなかったようだ。当初、風車建設に反対しようとした人たちもいるにはいた。しかしすぐに変心していた。閉ざされた社会だったし、よっぽど村八分や弾圧が怖かったんだろう。

被害者でさえ、「私たちは風力発電には反対ではありません」とロボットのように繰り返すんだから、恐ろしい言論統制、恐怖政治よ。伊豆でも、伊方でも、そうだったでしょ。怖いのは、被害者が苦しんでいるのに、その人を否定して「更年期障害だ」、「証明できない被害は被害ではない」、と言って人々が嘲笑ったことだ。田舎の人は語彙が少なくて、話し言葉は決まった文句ばかりだけれど、この時ばかりはいろんな受け売りの言葉が飛び交った。デマをまき散らすスパイ、工作員がいたのだ。

少数者を迫害して虐待することが面白かったのだ。被害者が亡くなると、議員たちは手を叩いて笑っていた。何が可笑しいんだろうか、と私は怖くなったものよ。それはよくBSドキュメンタリーでやっているドイツのナチスがやっていたユダヤ人の虐殺と同じ光景だったのだ。敵にする対象が決められると、人々は一斉にユダヤ人を迫害して、虐殺していた。

あのゲーテや、ヘルマンヘッセの文豪の国でだよ。ポルシェや、ベンツといった高級車を作っている先進国でだよ。日本では原発ができると、地域の人を集めて原発音頭を謳って踊ったという。それほど嬉しかったのだ。同じように風力発電で人が死ぬと、人々は手を叩いて踊って喜んだ。「アホよら、アホよら」といって。私は何度も風力踊りを見た。手を叩いて笑って喜ぶのだ。これが行政の姿だった。

あたかも心配そうに話しかける環境運動家たちの顛末だった。誰一人として、「風力発電を止めろ」といった人はいなかった。私一人だったのだ。エライ役を貰ったよ。私はこの惨劇を急いで知らさなければならないと思って、『風力発電の被害』を書いた。しかし由良町で買ってくれたのは1冊だけ。何冊か地域の友人に配ったけれど、ある日、我家のみかん畑にボロボロになって捨てられていた。ほとんどの人は、この本を見るだけで血相を変えて逃げていったのだ。関わりになることが、それほど怖かったということだ。

当初からのことが、何が起こったのか、当事者の下手な文で書いている。ある訪問者が来た時、谷口宅など案内しながら、この本は谷口さんから電話があって、そして亡くなるまでのことが書いてあると話した。「えっ、これ谷口さんのことですか」と私を睨んで言っていた。谷口さんは御坊市の本屋でこの本を4冊購入して知人に配ったという。今はその本屋も、この本を置かせてはもらえない。お断り、と言われている。御坊市沖に200mの高さの風車が150本も建設されるというのに、危機感など全くない。意思を奪われているようだ。

風力発電は、被害があっても、なくても、人々の意思が簡単にコントロールされている。反対する人は人ではないらしいのだ。今回、山形や、秋田の記事を見ながら、やはり、「なぜな?」という不思議でいっぱいなのだ。日本だけが風力被害者を否定して、抗議するものを弾圧して喜んでいる。汐見先生の迫害を見ているからね。相当根の深い闇があることは分かっている。

風力発電は何が悪いのか。問題の核心は低周波被害だよ。低周波で周囲の人々が苦しめられるから、アメリカやヨーロッパで「風力発電を止めろ」、「風力発電はいらない」と抗議しているのだ。日本では環境省が何度もしつこく低周波被害を否定しているでしょ。水俣病やイタイイタイ病のやり方と同じことになっている。ぜひ、比べてみてください。

各地の風力反対の人と話していて、「きついことは言えないからな」と腰を抜かすような言葉を聞いている。風力被害があるのに、なんで被害成分を測定して抗議しないんですか? と聞くと、誰に頼んだらよいか分からない、という。こんなやりやすい反対運動もないわな。

出羽三山は信仰の山で有名だから風車は建たなかった。被害がある、なし、ではなかったのだ。それが観光のためだと聞いて目まいがした。神様に対抗するようで悪いが、生きている人間の方が大事なんだよ。人が風力発電で苦しんでいたら、笑いものにするんではなくて、助けようと思わないか。「関係ない」と言う人が狂っているのだ。風力事業の手先になって、ロボットにされている現実を見てほしいのだ。人間性を取り戻そうではないか。

風力発電はサギやで。風力発電に反対しよう。風車を撤去しよう。