被害者を弾圧する仕組み

ホームページを始めてからすぐに気が付いたことですが、「由良守生」と検索すると風車の写真やイラストが画像欄に出ていることに気が付きました。ほとんどすべてが風車の写真になっていることもあります。偶然だと思いますか? 彼らの悪意に決っているでしょう。嫌がらせを楽しんでいるんです。

「風力発電、低周波被害」で検索すると、環境省を筆頭に、低周波被害を否定する記事がどっさりと出てきます。5年ほど前までの水俣病の記事と同じです。環境省は水俣病を否定していました。たぶん今もそうでしょう。風力業者や環境運動家たちは、こぞって低周波被害を否定して、風力発電は自然エネルギーなんだと謳っています。

「低周波被害」を検索しているのに、被害を否定して風力発電のコマーシャルばかりがあふれています。おかしいでしょう。被害地域ではたくさんの被害者が苦しんでいるのに、この弾圧は何なのか。道徳、倫理観はないのかと驚くばかりです。実は、いつの時代にも弱者がいて、差別して迫害することは社会の習わしになっていることが分かります。

それが人間の本性です。私たちは水俣病の本を読むとき、よくもまぁ、こんなことが出来たものよ、と感心するものです。しかしその場になってみると、彼らと同じことをしていることに誰も気が付かない。いや気が付いても「関係ない」と逃げてしまいます。無関心になってしまいます。ハンナアーレントの悪の凡庸です。当たり前すぎて、誰も分からないかもな。

先日の12月議会では、被害者の苦しみを訴える新聞記事を提出して見せても、「聞いたこともない」「被害を訴える人は誰もいません」と繰り返し答弁して、私の被害の訴えを根拠のない事として発言を禁止する議長命令が下されました。町長や副町長は大きな口をあけて笑っていた。私に見せつけるためでしょうな。

議員たちも被害否定のヤジを飛ばしていた。金を払っても、こんな景色は見られません。被害を訴えて亡くなっていった人がたくさんいます。それを「知らん」といって公の議会で被害者を笑いものにして否定するのだ。いやー、私にはできないことですよ。エライものを見ました。議員冥利に尽きます。

以前、大叔父の由良守應が二百叩きの刑を受けて和歌山から追放された記事を書きました。それで淀川の辺りで非人として終わるはずだったのが、いつの間にか大蔵大祐という顕官となって明治維新を謳歌していた。我が家にはこの話があふれていた。作家の神坂次郎は何度も我家に取材に来たものでした。『走れオムンボス』は週刊朝日に連載されて文庫本となっている。

私は畑地区の被害者たちから助けてほしいと頼まれました。もちろんこれまで書いたように裏切りの連続でした。ひどい目に遭いました。それが風力発電の低周波被害なのだということも分かりました。被害者は、弾圧されると人としての自覚をなくしてしまうのです。やはり行動哲学が必要でした。司馬遷の『史記列伝』にもあるし、由良守應のこともある。

私は他の被害者たちと違って支えてくれる人もいた。いや他の被害者にも支援者はいただろうが相手が悪かった。環境運動家の嘘八百にやられていた。「今はその時期ではない」と。我慢するとこを強制されたのだ。その内に、彼らは人としての自尊心をなくしていた。被害地域の人が被害者を弾圧して黙らせる。被害者が他の被害者を黙らせる。

被害者が役場の手先となって低周波被害を隠ぺいする。伊豆半島などで行われてきた通りよ。伊豆半島ではたくさんの被害者はアホらしくなって逃げだしたけどね。愛媛はもっとひどかった。今度の議員選挙では、畑地区から一人の新人さんが出ることになった。私の票が減るだろうけれど、楽しみな一幕ではある。私はまた汚いヤジを飛ばされるんでしょうな。

鉄仮面でもつけていかないと選挙のお願いには行けないだろう。「鉄板の胸アテを付けていけ」とはよく言われる言葉ではある。弱い者いじめが楽しい社会なんて、ヘンでしょう?風力発電の被害を訴えることが、なんでそんなに悪いのか。被害を否定することが、なんでそんなに大事なのか。みんな騙されているんです。

被害者を弾圧して喜んでいる人は、たとえ自分が気が付かなくとも世間が勝手に評価しています。人の恨みを買うと怖いですぞ。