底抜けの無責任

「ワシら関係ない」、先日、久しぶりに会った知人が何度も私にそう言っていることに気が付きました。何のことかと思っていたら、「風力発電のことはもう言うな」と繰り返し言っていました。田舎の人らしく、素朴な話し方だったので、意味が伝わるまでしばらくかかりました。H.24年の3月議会から、私に向けられた議員たちの言葉をそのまま話していました。

得意げに、「関係ない」と。実は、私の親しい人たちも何人かが同じ言葉を使って、私の風力反対を「もう、やめたらどうよ」と話すようになっていました。もうすぐ議員選挙なので、気の小さい私は「アレッ?」というような出来事でした。逆に、私の知人たちが同じ言葉を言うようになったことに面白がる知人もいて、「私にも風力を言うたらアカン」という人がいると話してくれました。

由良町議会では9対1で、私以外のすべての議員は風力発電を推進して、風力被害を否定しています。少数の被害者など票にならないし、暴力的な言葉で弾圧すれば、どうにでもなると考えているんでしょう。被害者たちも汚い言葉で弾圧されるとすっかり委縮してしまって、口を閉ざしています。私への拒否はすさまじくて、汐見先生顔負けやなと感じています。

人間の尊厳、人としての自負がこれほど弱いものであったのかと、私は驚いています。風力発電の低周波で苦しんで、それで汐見先生に来ていただいて、相談することになったのに、役場や業者などの工作により、簡単に裏切っていました。「大変な迷惑をした」と自称被害者たちは汐見先生のことをそう言うのです。そのくせ自分たちは引っ越して逃げ出したり、仕事などの利権を求めるのです。

そして苦しみながら死んだ人もいる。アホやなぁ。低周波被害者は頭をやられますから、高圧的な脅しを加えれば、大体が屈折することも分かりました。やさしい方、簡単な方に、納得してしまうようです。いったん裏切ると元に戻ることはありません。なんせ少数の被害者です。数の多い方につきます。「私たちは畑地区の人と一緒にやっていく」と。地域社会とのつながり、仲間外れにされないように、必死になるようです。

私が一人、反対できるのは「なぜ」なんだろうと時折思うことがあります。何人かの被害者に泣いて頼まれたからですし、私にも被害があって、先祖伝来の田畑、自宅を大事に守りたいからでした。もともと我が家には由良姓以外に本当の「姓」がありません。歴史的な理由があるようです。ですから他所へ引っ越したら困るだろうなという危機感もあります。汐見先生を裏切った被害者たち、私を裏切った被害者たちへの侮蔑もあります。

かといって、哲学者フランクルの書いた『夜と霧』にあるように、囚人として強度の弾圧を受けると、どんな人でも人間性を喪失するものだという事実も分かります。しかし弱者となって被害に苦しむ人がいるのに、その声を何度も聞いているのに、「被害はありません」「言ってはならない」「あんただけやで」と冷酷な言葉で拒否する人たちは、道徳から見てヘンだと思わないか。

被害者が亡くなると、手を叩いて喜ぶ様は、異常としか見えないでしょう。谷口さんは、「あの人は、人だとは思っていない」と言っていました。ハンナアーレントが言うように、悪の凡庸です。被害者たちが必死になって由良町役場に訴えたのに「あんただけだよ」と言って弾圧した役人は、一丁前の悪人でしかありません。

私に向かって、「関係ない」と主張する人たちは、いったい何に対して「関係ない」のか、たぶん本当の意味は理解しないまま、権力側について、権力の末端として言葉が言えることに自信を持ったのでしょう。そんな権力が、ご自分の権力であるはずがないのに。人としての「やさしさ」を捨て、弱者に対する優越感に喜んだことでしょう。こんな心理操作が、なんで地域活性、地方創生であるのか。ヘンだと思わないか。正気を取り戻そうではないか。