風力発電に「なぜ」は通用しない。

今朝の産経記事には山びこが苦手、声だけ切り離すと、恐怖感があるからと書いている。妖怪の物語にこんな場面がありましたなぁ。自分の発した大声が、別の言葉になって返ってくる。そりゃ驚くわな。これが人の恐怖心というものか。日常の社会生活でもさ、とんでもない評判を聞かされると「ヒヤッ」とすることがあるのは私だけではあるまい。人物破壊。メッセンジャーがいろんな話を伝えてくる。

私の悪口雑言は聞き飽きている。それらの人とはもう修復は不可能だ。それらの人も同じことだろうて。許せることではないと思うで。インターネットはしない人もいれば毎日、検索して楽しんでいる人がいる。その隙間に付込む余地は十分にある。プリントして、「ほら」と見せれば人は喜ぶだろう。あるいは「ナニコレ」と言って怒りだす人がいる。

私のホームページはそのようにして利用されているらしい。最初から分かっていたけど、それだけ敵には注目されていたわけだ。効果テキメンよな。それは風力被害者にとっても、一般の人にしても、少しは情報を拡散したと思っている。今も私の書いた『風力発電の被害』は売れ続けている。由良町の人だけ、それは見てはならない恥部になるらしいのだ。

アホよら、と何度罵られたことか。まるでダメだったね。これが風力被害地の現実だ。さて風力被害の目的だよ。もともとが風力には意味なんかない。日本で風力発電が無理なことは30年前から分かっている。たまたま私は建設コンサルタント会社にいたから、各地に建設された風力発電がすべて失敗したことを知っている。各地で行われた実証実験、施設も同じ結果になっている。

福島沖の洋上風力が600億円の費用をかけて失敗して、50億円かけて撤去した案件は有名だろう。分かっていてやった業務なんやで。予算の消化が目的よ。各地で同じ実験施設を作っては撤去を繰り返している。恐ろしい予算案よな。その延長が今の各地に建設されている風力発電だ。風もないのに風車が回っている。観光風車だよ。よっぽど電気が余っているんやね。

それで風車を回すとカネになるわけだ。デモンストレーションの風力発電よ。目的なんかない。地域支配の強化、弾圧がある。「風力発電を作らないと勿体ないんやで」由良町、議会ではそう言われている。低周波の被害者がいて苦しんでいることなど論外なのだ。いや、彼らは被害者のことを十分に知って言っているから、その人に対する憎しみを募らせることに歓喜を覚えていることだろう。

頽廃と虚無。幸福感とは違うな。生贄が面白いのだ。だから環境省の被害否定、被害を訴えるものは精神疾患のもの、という摺り込みが正義になる。民族の浄化じゃあるまいに。世界的には結果があるから、最後は、というより初めからそんな悪党は惨めなピエロでしかないんだけどな。私には、この人はどこまで悪いんだろうか、と勘繰る癖がある。

ついついそのまま放置して損な目に遭っている。相手は勝ち誇っているだろうけど、私もそれなりにいいもの見せてもらったと思っている。悪意の塊やな、これでも生きて行けるんや、と思ったのだよ。人が生きていくにはどの時代も厳しいものだ。金持ちも貧乏もない。私は貧乏な百姓だけれど、サラリーマンや公務員を羨ましいと思うことはもうない。

全体主義、ファシズムにはうんざりなんだよ。すまじきものは宮仕え。各地の風力被害地では同じ対策が取られている。連携しているから同じ言葉、同じやり方で被害者は弾圧されて消されてきた。10年前はまだ、それらの被害者は連絡を取り合っていたようだ。それがついに繋がりは断たれてしまう。希望とか、矜持とか、意欲とか、磨り潰されてしまったんだろう。

私に対する憎しみは何度も聞かされたよ。奇妙な洗脳があるんだろう。これも被害者対策のメニューだ。風力にすればどちらも好ましくないからね。被害者に対する暴力が深化しているだけだよ。風力発電の低周波被害は、それ自体が暴行傷害、殺人事件だからね。谷口さんが書き残した記事を見ても分かるだろう。

風力発電の被害とは何か? あの本を書かなければならないと思い立った時のまま、今もそのまま各地で被害者が苦しんでいる。海外では、どこでも風力発電の被害に抗議デモが行われている。日本だけ、それがない。なぜや、という私の思いが積み重なっている。豊かで、楽しく、健康な生活。人々は真逆の政策に進んで自分たちの生活を差し出していた。

私たちには風力発電が必要です、というのだった。いったい、どの口が言っているんだろうね。呪われた町なんかい。