駅前アパートをやっています。

50年前、親父が突然アパートを始めた時、小さな子供たちがいっぱいいて、まるで幼稚園のように賑やかな風景でした。20年ほどは常に満室で、私たちはそのお金で大学に進学できたようだ。新しいアパートはバブル期の泡銭で建てた。ローンの返済が大変だったかな。住人が集まらなかったのだ。段々に人の移動が少なくなる。

それがまた最近、コロナ禍とか何とかでさらに人の姿がまばらになる。アッ、そうか、遠くに風力発電の山々が見える。これが出来ると言うことは、町全体が沈没しているからだ。被害地の様子はこれまで書いたとおりだ。見ていて楽しいものではない。観光資源になる、なんてよく言うわな。我家はこの辺に田んぼがたくさんあったと聞く。

ここに二反(20アール)の大きな田んぼがあって。それが今の門前の交差点になっている。アパートの土地はそのはしくれだ。だから番地はみな同じよ。閑古鳥が泣いている。もうしばらくは空室でガラ空きだ。難しい局面よな。南海地震が来れば、もういつ来ても良いと思っているんだが、そうすれば東荘は蘇る。待っていると来ないね。

その地震でアパート自体がやられるかもしれないけどな。三井造船由良工場が来た時、たくさんのアパートが建てられた。あれから50年、我が家のアパートだけが残っていた。需要がなかったのだ。このページを見て分かるように我家の特徴はしつこいことだ。なんせ700年前の南北朝の動乱を今でも引きずっている。

まったく何も残されていないのに、家柄意識だけは強烈だ。我家から嫁に出た大叔母や叔母の暴れようよ。気位の高さは次世代の息子の嫁には鬼と見えたと言う。その話を聞くたびに笑ったものだよ。私の祖母や曾祖母は楠木正成の子孫だ。皆さん大変だったらしいですよ。家族の歴史を背負う。とうとう私一人になってしまった。

私も頑張ったつもりなんだが、ここまでたどり着いたと言うことだ。アパートの前で百円売り場をやっている。これも私の売り場だけになっていた。以前はあちこちにたくさんの売り場があって、百姓たちの小遣い稼ぎになっていた。泥棒が多かった。被害にあうと、精神的なダメージが尾を引いた。もちろん私もだよ。

金銭的には、しょせん百円だから大したことないんだけどな。人の心は犯罪や悪意に、それほど弱かったことを見た。私の百円売り場は、閑散としたアパートの賑わいにと思ってやっている。たまに、売れ残ったミカンを住民の人に配っている。コミニケーションだよ。管理人の仕事も年とともに慣れてきた。

やはり年取らないと分からないことがある。腹で仕事をする、そんな感じになる。人それぞれ、一生懸命生きているようだ。それにしてもなぁ、住む人がいなくなると、困ったものだよ。これも時代の荒波か。いや、単に古くなったから、と言う意味も分かるんだよ。私だって年取って、もうヨレヨレなんだからさ。

よかったら東荘に住んでみないか。JR由良駅の近くだから便利はいいで。海が近いから別荘代わりにもよい。雑魚釣りとかさ。気分転換は必要なことやで。