ターゲットは私じゃない?

これまで私はこのページを使って散々に被害者への弾圧の実態を書いてきた。風力発電の被害を訴えると、こうまでして酷いイジメに遭うのかと驚きの連続であった。他の被害者も同じようにやられていたから、当時は議員として当然の栄誉だと考えていたものよ。かなりキツカッタけどな。

昨日久しぶりに被害地域の人たちを見た。稲刈りを終えて、当番だった水路の切り替えに、由良川の上流まで行ったのだ。住民たちがいたよ。相変わらず楽しそうだ。私は這う這うの体で逃げ帰ったものさ。汚い言葉で叫ばれてはたまらないからね。アレッ、なんかヘン?目の前の山々には風力発電が勢いよく回っている。

畑地区に行くと、それが音圧となって耳の奥に重い圧迫感となる。人々は嬉しそうに笑っている。なんだろう、この笑みは。ふと、ブラジルやアフリカの土人たちが風力反対に騒いでいる光景が目に浮かぶ。学歴や知識はなくとも、被害だけは分かるのだ。何が悪いのか、その原因までお見通しだ。

低周波音は聞こえないから分からないだろう、ってか? 彼らの音楽、あの太鼓を叩くテンポの響きは空気振動だよ。ジャングルや高原を超えて伝わっていく。それで住民たちを呼び寄せる。感度、バッチリなのさ。我々、文明人こそ、自動車や電車、テレビの音で感度が悪くなっている。

深夜、隣のエネファームの音がうるさくてならないとかね。勝手なものさ。風力発電の何が悪いのかは、被害地になれば誰にでもすぐに分かる。空気がいっぺんに代わる。何も感じない、という人はウソだね。とくに由良町ではな。ではなぜ由良町では、風力発電の麓の人はニコニコして笑っているのか。

それが不気味に見えたのだ。アッ、そうか、私じゃなかったんや、と。ターゲットはこれらの人やったんや。私はタダの『民衆の敵』であった。それもたくさんのウソの上塗りで、風力発電のウソもすごいけど、個人攻撃、みんなで差別して排撃する心理、尻尾を巻いて逃げ出す僕、「まだワシらに頭をよう下げんのかい」という夜郎自大。

地域対策で、こんなにも簡単に人は思考を奪われてしまう。「風力の被害なんて聞いたこともない」と彼らはあちこちで吹聴する。それをまた、そうですか、そりゃそうだよな、と納得して聞いている。悲喜劇、というよりコメディ、バラエティ番組の世界だ。仕組まれた罠。

たくさんの被害者が苦しみながら死んだのに、誰も怒ることのできない心理の闇よ。これを催眠術と言わずに何と言うのか。一般には、大学の心理学教室でも、催眠術はない、とされている。同時に、心理操作は簡単にできることを実験で見せてくれる。これとは少し違うな。

「私たちは風力発電には反対ではありません」というフレーズは、東伊豆町から始まった。死ぬほど苦しんだ被害者がまた、何で? と笑えたものだよ。あの畑地区の谷口さんも何度も私にそう言ってきたからね。よっぽど強力な洗脳儀式があったんだろう。「畑地区の人と一緒になって頑張っていく」とかね。

ホントはさ、苦しくてならなかったんだよ。だから最後の時まで私に電話してきた。人々はその死を笑いものにした。カルト。イデオロギー。一人の漏れもなく、人々はヒステリックに被害を否定した。これが私の住む門前地区でも同じことになっていたんだから、私も言葉はない。すっかり村八分だよ。

先日のページでは東北の海岸に林立する風車軍を紹介した。そこの人たちは「土砂崩れが心配だ」と言っている。もはや人間とは思えない。思考を奪う特殊な心理技術があるんだろうか。日本人は、こんなにアホだったのかと驚くしかない。ブラジルやアフリカの土人と書いた。彼らの方がよっぽど人間らしいじゃないか。

日本人は、よっぽど何かを無くしてしまっている。被害地の人を見て、そう思ったんだよ。人間の姿じゃない、と。不都合な真実。批判精神の欠如。犠牲を見ながらの非情な社会。こんな風景はアカンでしょ。風力発電に反対しようじゃないか。土砂崩れじゃない。エコでもない。

役場や政治は助けない。明治維新のように、気が付いた人から反抗しようぜい。鎌倉幕府だって、各地の武士が立ち上がって倒したじゃないか。我々日本人には十分にその資格があるんやで。