空理空論のレトリック

今年は空梅雨なのか雨がない。水田の管理、水引が大変だ。由良町は水のないところだから、そろそろ水の奪い合いになる。昔なら、あらかじめ仲良く分け合いましょうと言う宴会みたいな行事があったけど、今はそんなめんどくさい仕掛けはどこにもない。

刺々しさ。憎しみを見る。とくに私は風力被害を訴えているから格別だよ。さて今日の産経記事には脱炭素のアホらしさを書いている。その通りだと見ながらも、やはり御用学者よな、とタブーがあることが分かる。先日のジャーナリストや環境運動家の全国大会とダブる。

トリック。プロパガンダなのだ。だからどうしたと言うのだ。あたかも心配する素振りを見せて、正論だとかいう意見を開陳する。しかしそこには被害に苦しむ人がいることはない。温暖化に、じゃないよ。

風力発電の低周波被害、風車病だ。太陽パネルや地熱発電でも、近くに民家があれば結構な被害になると聞く。家庭で使う程度の小規模な発電機なら良いけれども、工業化して多少の規模を揃えると、とたんに公害施設となっている。発電所とはそんなものだよ。

自然界にないものを無理に作り出して、生活に産業に利用するんだからさ。問題は被害者に対する弾圧だ。やっと悪の核心が見えてきた。自称、風力反対の会、環境運動家、行政や政治、一度でも被害者の側に立って発言したことがあるか。

「私は恥ずかしい」、「分かっていてやっている」、被害者たちはそう言って死んでいった。それを笑いものにして喜んでいる地域社会がある。なぜな? 私をあざ笑う百姓たち。同じ百姓なのにその人が亡くなるとなんで笑って喜ぶのか。「コイツよおっ!」とサモ嬉しそうに高笑いする。

畑地区の谷口さんらもそうやって苛め抜かれたと聞いている。環境運動家たちは大喜びだ。他の被害地域でも同じやり方をしているだろう。日高川町などの被害地を歩くと人々の視線が突き刺さる。そんなにいけないことなんですか、と私は恐縮して早々に立ち去る。

「日高川町に被害はない」そう怒られている。何も怒らんでもよいだろうに。アホやで。環境運動家が言うには、それは和歌山だけでしょ、という。いやいや、東伊豆町や伊方町、その他にもたくさんの地域の被害者が被害を訴えて死んでいる。知っているのに知らんふり。

海外なら普通に「Stop wind turbines !」と言って抗議している。日本にはそんなデモはどこにもない。全国大会と称する再エネ祭りだ。環境運動だよ。最初からこういった仕組みが確立されていた。産廃のニセ反対運動と同じだ。権力の手先となった

親方日の丸だから強いものよ。私は一人、本当に一人になってしまった。答えは初めからある。名誉の勲章だと思っている。誰が、人の狂い苦しみ死んでいく様を見て、手を叩いて笑って喜ぶかいな。私にはそれが信じられないのだ。私はごめんだね。

由良町の風力発電を撤去してくれ。それ以外に解決はない。たくさんの風力被害者が苦しみながら死んでいった。記念碑を立てるべきだ。木違い死すべしと。