奴隷の定義

日本人には奴隷の意味は分かりにくい。魏志倭人伝の卑弥呼に出てくる「生口、何人」という程度か。戦国時代には南蛮人によって日本人がセッセト売られていたと読んだことがある。カラユキサンの話も有名だ。しかし何だかヨーロッパ人との意識が違う。今日の産経記事を見て、自分の考えに捕らわれて、自ら奴隷になる、そう考える向きもあるんだと読んだ。

プーチンやゼレンスキーのことはホントに分からない。ニュースを見ていても悪口ばかりだ。私も悪口の嵐の中で、何とか生きているから勲章みたいなもんだろうと見ている。「人間や世界を柔軟に見る」、いやいや許せないことはあるわな。中間はない。もし、ま、いいか、と許してしまった瞬間、水俣も福島も、風力被害の訴えも消えてなくなってしまうのだ。

被害を否定する国や企業、人々の冷酷な仕打ちよ。これは日本の社会風土なのかと泣けてくる。生贄、スケープゴートに人々は狂喜していたのだ。被害のことを知らないのではない。知っているからこそ、最も弱い存在となった標的に向かって攻撃する。政治や行政がバックにあるからこんなに安全な虐待もない。谷口さんらが亡くなった時の人々の喜びようよ。

「ワシらは面白うてならんのや」と何度聞かされたことか。なんで面白いんやろ。なんで笑って喜ぶんやろ。由良町役場でも何度もその声を聴いた。これが社会正義なのかと。さらに風力裁判までやられて私もコテンパンだよ。由良町はその時喜びに沸いたのだ。私も笑ったよ。アホに付ける薬はない。柔軟性の喪失、それは中庸とか、忠恕のことなのか。そうではあるまい。

信念というほどのものではなくとも、ロボットじゃないんだよ。自分が持って生まれた人生を信じてやっていくしかない。もし人ゴミにまみれて自己を見失ってしまったら、それこそ大変なことになる。私は先祖伝来の田畑で百姓をすることが気に入っている。こんな感じだよ。漁師でも樵でもよい。人にはそれぞれ価値観がある。それを無くしたらお終いよ。

なんで人の苦しみや不幸が面白いのか。なんでそれを人に伝えて笑いあうのか。環境省の報告書に「被害を訴えるものは精神疾患のもの」とする、それこそが刷り込まれた呪いだと思うのだ。奴隷にはなりたくはないで。