再エネの幻想を見破る。

ウクライナの戦争を見ながら、世界では天然ガスや石炭が高騰して困っているという。ガソリンが高いのは日本でも同じよ。脱炭素、再エネ100%やなかったんかい。てんやわんやの大騒ぎよ。地球温暖化騒ぎの欺瞞とカラクリは、こんな形で実現不可能なインチキだと分かったじゃないか。

それでも「これをキッカケに再エネに転換するべきだ」論をあちこちで聞くことになる。その記事を見ると、なんか笑えてくる。風が吹かなかった。天気が悪かった。夜は太陽パネルは発電しない。などと当たり前の言い訳が大手を振っている。それでいいじゃないか。与えられた幻想の中で生活すればよい。

錯覚でも何でもない。ウクライナには原発がたくさんあって、電気には困らなかったんやね。チェルノブイリの事故がありながら原発政策は変わらなかったようだ。日本とは風土が違う。毎日、メディアではウクライナの戦争が姦しい。私も、どうしてもテレビで流れている映像を追う。

現実に人がたくさん死んでいるという。戦争の恐怖。日本人は、なんかズレている。難民なんか来なくていいからね。それでなくとも日本人は貧乏に喘いでいる。貧富の差が明らかになっているのは、世界共通の現象か。べつにカネがあるとかないとかじゃなくてさ。いかにも見すぼらしく、貧しい人々が溢れていく。

10万円の給付金が待ち遠しい。以前なら、たとえ貧しくとも懸命に働いて生きていく姿に、私たちは応援の言葉を惜しまなかったものだよ。人々も謙虚に生きていたと思う。今の時期、百姓たちはウスイエンドウ豆、そら豆、野菜の収穫に忙しいはずだ。それが見渡す限り、裏作は何も作られてはいない。

米も安い。百姓のダメなことよ。雨露を凌ぐ古い自宅があるだけで良しとするか。「よく見れば、ナズナ花咲く垣根かな」再エネは幻想だ。風車病のように、被害者を弾圧する仕組みを作っておいて、組織的に低周波の被害を隠ぺいした。人々は嬉々として弱者となった被害者を虐待して喜んだ。

行政、体制側について、優越感に浸ることが嬉しかったのだ。少数の被害者はたまったもんじゃない。なかには泣き叫びながら死んでいった人もいる。それがまた面白いと言っては笑うのだ。これが被害地の実態だ。

当然に各地の風力発電の被害地でも、あるいは計画地でも、抗議運動があると思っていたら、「考える会」などによって、「我々は土砂崩れが心配だ」と論点をすり替えていた。更年期障害だ。障害者の症状だ。プラシーボだ。

いろいろなエセ言葉が溢れているぞ。そうやって弱い者いじめをすることが流行になっていた。アホやなぁ。せっかくの社会を破壊されているんやで。企みなんやで。水俣や福島を見れば分かるだろうに。