下関の悪夢

東北などでは風車だらけやな、と思っていたら、下関でも同じように風力発電の建設が続いている。風車病に苦しむ被害者がたくさんいて、全国的にも有名になっているのに、地元でも政治でもお構いなしだ。由良町と同じように、被害者はすっかり奴隷にされている。苦しみながら死んでいった人もいるだろう。伊豆や伊方と同じことよ。

警察による弾圧もすごいようだ。警官が個人的に、反対する人、抗議する者を憎悪するようになるらしい。組織が人を作るのだ。幕末、山口県は倒幕だ、佐幕だと激しく揺れ動いた。内部で粛清、血みどろの殺人があった。そういう社会風土なんだが、今回も、風力に賛成、反対、と姦しい。

外側から見ると、同じ人たちが午前中は反対して、昼からは風力を推進する政治家を応援している。利権があるのだ。地域で生きていくためには必要な処世術らしい。だから高杉晋作が輝いたのだ。しかし今はそんな人はどこにもいない。和歌山は身近な被害だから悲惨だよ。

これまでたくさんの被害者が助けを求めたのに笑いものにされて消されてきた。私が生き残っているのは奇跡だろう。弾圧の嵐だけどな。風力被害を否定して、私を罵倒する人を見るたびに、これが人間の正体なのだと思い知る。命令されただけで、誰がこんなにも激高して叫びに来るものか。

私は、「風力発電は精神を破壊する」と書いてきた。ジャーナリストたちは「社会が破壊されるんやで」と伝えてきた。その通りだったよ。それが、今では社会の断絶、静かな戦争、と言われるようになっている。日本の社会が変化していたのだ。日本の反対運動と、海外の風力反対とは正反対だと書いてきた。

日本の環境運動家は行政の傘下として、エセ反対運動を主催して、被害の隠ぺいを繰り返している。土砂災害だ、障害者の特殊な症状だ、と風力被害を別の言葉にすり替えている。国の権力を背景にすると、こうも堂々と悪事が平気になるらしい。

被害者の苦しみを目の当たりにして、ここまで来たからには、巨大な風車が海にできようが、砂浜に建とうが、とくに感じることはないだろう。何のための風車なのか? なんて考えはどこにもない。奴隷化政策もここまでくれば大したものよ。

それは由良町で散々毎日見ているからね。完全に出来上がっている。司馬遷の『史紀』列伝に書いてあるように、「命じられれば火の中でも飛び込んでお役に立てます」となっている。見事な支配技術だ。社会管理だよ。