水管橋の崩落

和歌山市の水管橋の崩壊は全国ニュースとなって飛び交った。たまたま我家の周辺で水道業者が工事していたので話してみた。彼らは、紀ノ川は断層地帯で地震の震源地だから、それがストレスになったんと違うか、と言っていた。私も県職員からそう説明を受けていたので、おそらく疲労破壊なんやろう、と思っていたのだ。

毎日大量の水が送られるから振動もある。40年前の経済設計した当時の橋梁は、みな同じリスクを持っている。低周波事件と同じ振動が起こるのだ。しかし今日の記事を見ると何のことはない。錆びて破断していたのだ。海が近いから潮風が吹く、当然鉄は錆びていく。数年に一度は塗装工事をやるから、ペンキ塗りの人にはそれが分かっていたはずだ。

あるいは管理する水道局の人も、部材の健全性を確認したはずだ。構造的に、アーチ橋の垂直材が切れていては意味がない。それも写真の通り、昨日や今日の出来事ではなく、かなり以前からこんな状態にあることが分かる。私たちが普段通行する人道橋と、水管橋とでは、その重みが違う。農業用水路と、住宅地の排水路が違うようなものだ。

こんな意識があったのかもな。長周新聞にはご丁寧に、被災した方々に留意点、対応策を書いている。こんな見方もあるらしい。私は違う。由良町は水のないところで、私の子供の頃はまだ風呂の水を二日、三日使っていた。汚い話だが本当だ。それほど水がなかったのだ。今は日高川から水を送ってくるから昔のようなことはなくなった。

あの時、水が無くなると我家に水をくれという人がいた。祖母や母は親切にタダで水を提供していた。さて風力発電の地域対策よ。私はボロクソだよ。情けは人の為ならず。その人を悪くしてしまう。こちらは親切にしたつもりでも、あちらはその度に我家を恨み続けていたのだ。なんでオマエノ家には水があるのか、と。

周防大島にも井戸があり多少の水があるだろう。そこには我家と同じような話が散乱していることだろう。うわべの親切より、給水車より、私にはもっと大切にしてきた暮らしがあるだろうと思うのだ。何でもかんでも行政サービスでは奴隷と同じやで。また、これらの記事を見ながら水道管でよかったじゃないかと思っている。

これが原発のダクトや循環器ならエライことよ。人のやることは、水道管も原発も変わらない。想定外? そんな言葉が流行りましたなぁ。点検しているはずでも、結果として見落としていたんでしょ。誰のせいでもない。誰も責任を取らない。これまで、あちこちの原発では、同じ事故を引き起こしては被害者を出しているでょ。

技術は一流でも、管理能力がない。これが一つの結論か。風力発電の被害では、たくさんの被害者が苦しみながら亡くなった。それを見ながら誰も責任どころか笑いものにして喜んでいる。水管橋の崩落と同じ現象よな。いや、風力発電の被害者たちは返ってはこない。