宗教弾圧だというのか。

今から40年前、長岡技大で学生時代を楽しんでいた時、先生連中は「宗教を持たないと一人前の人間として扱ってもらえないぞ」と言っていた。とくにヨーロッパやアメリカではキリスト教だというのだ。カトリックでも、プロテスタントでもいいから、彼らと対等に話し合うためには、こちらも相応の宗教観がなくてはならない、みたいな話を聞かされていた。

我が家は臨済宗と、真言宗と、八幡さん、住吉さん、アマテラス、みたいな感じで、何が宗教なのか、分からない有様であった。その上に旧家だから、井戸の神さん、荒神さん、入らずの神さん、といった具合に、何でも神さんとして祭っている。今でも正月に三度、ゆずり葉に食物を盛って、それぞれの神さんに上げましている。

そろそろ近所の連中は、私のしぐさに奇異を感じているに違いない。そんなこともあって、我が家に訪ねてくる外人さんには「宗教は何ですか」と聞くことにしている。豚肉とか、牛肉とか、食べられない人もいるからね。ワグナーをかけたら気分を悪くする人もいるだろう。香港人が来た時、「カトリックです。学校もそうでした」というので、関帝廟にも行くんだろ? とさらに聞いてみた。

それは宗教ではなくて習慣みたいなもの、と彼らは言うのだ。そうかもしれないけど、道教のお寺に行く人も多いから、私から見れば、それは立派な宗教だと思ったものよ。日本人が正月に、お宮やお寺に初詣に行くのも宗教でしょ。なんだか理屈っぽい。この記事には、中国に信教の自由はない、と書いてある。なんか違うなぁ、と感じたのだ。

宗教弾圧という言葉だって、チベットやウイグルだから、そんなキーワードになるんだけれど、中国の各地には仏教や道教、キリストのお寺があるように聞いている。嵩山少林寺なんて映画にもなっているしね。モンゴル地方は、何だろう。チンギスハーンを敬ってはならないとか。だからこの記事は切り口が少しずれているのだ。

独裁政治、全体主義が危ないと言いたいのだろうが、宗教を持ち出すからおかしな展開になる。レバノン、パレスチナの宗教なんかすごいやないか。儒教の孔子さん、キリストさんの世界だ。あれ、また元に戻った。普遍的価値を守れ、という。どちらも古代から問題があるからこそ、秩序や祈りを求めたんだろう。それが今も簡単なことではないのは見ての通りだ。