残酷な各地の風力運動

今、インターネットで「風力発電反対」と検索すると、全国の風力運動がドツサリと出てきます。最初から被害を否定する欄、ビジネスとしての勧誘、環境運動家のホラ話、こんなページで埋め尽くされています。そこには汐見先生やNina Pierpontの訴えた低周波被害の深刻さはどこにもない。伊豆や伊方、由良町で起こった恐怖もない。風力発電というプロパガンダ一色なのだ。

誰か一人でも、風力被害で苦しんでいる人を助けよう、被害者が苦しみながら亡くなった、と訴えた人がいただろうか。それどころか、「市民風力発電に被害はありません」、「土砂崩れが心配です」、「景観の問題があります」というような的外れな言葉のすり替えで環境運動を染め上げているのです。これらの工作運動こそ、残酷な人たちだと思いませんか。

それは、たぶん一般の人ではなく、準備された運動家の面々だろうと思うのです。参加者が、御用学者や常連講師に疑問を投げかけることはありませんからね。カネだけではない、環境運動に参加しているんだという社会人としての満足があるんだろう。そこには被害者に対する感情は「無視」でしかない。早く二冊目を書かないとな、と考えている。汐見先生もそうして次々と冊子を書いて配っていた。

残念ながらそれを理解する人はほとんどいなかった。あの香芝高架橋の低周波裁判を主導した弁護士たちの無残な姿よ。犬の糞かいな、と思ったよ。水俣病でも、イタイイタイ病でも、被害者は悲惨な状態で何もできなかったでしょ。風力被害者なんか「精神疾患のもの」と蔑まれている。もちろん固く口封じされているから、彼らはどこへともなく消えていくしかない。

ユダヤ人狩りみたいなものさ。それが地域対策、環境運動家にとっては楽しみの種なのだ。マニュアル通りに弾圧して消し去っていく。パチンコ狂みたいなものよ。劣等人種の淘汰、環境に適合しないものに生存の権利はない。国の政策としてやっているから、環境運動家の威勢の良いことよ。昔、陸軍、今、環境屋、という。風力も太陽光も、時代の花形になっていた。

グリーンだという。サステナブルという。戦略的成長と言うから、歴史を見ても多くの犠牲があることだろう。それでも、この被害に立ち向かわないか。私たちの信じていた社会が、根底から否定されて腐っていく。被害者を否定して、リスクだという考え方は、どうしたっておかしいだろうが。風力発電の低周波で耳鳴りがして目眩がする。みかん畑で仕事にならない。風力発電を撤去してくれ。