特攻の本を読んだ。

先日から話題になっていた特攻の本を読んでみた。たまたま同じ内容で、BS朝日でもやっていて、何度か同じような番組を見た。カミカゼ、といって、少年飛行兵がゼロ戦に乗って、敵艦に体当たりする。そんなイメージだったんだが、やはり中身は暗い。私に特攻を語る資格などあるわけもなく、親や、その周辺も軽々しく言える話ではなかったんだろう。

由良港にも、人間魚雷か何かの特攻基地があったらしい。恐ろしい話よ。祖母が国防婦人会の会長さんだったので、我家には、よく慰問の兵隊さんたちが来て食事を振舞ったと聞いている。ある日、兵隊さんが干芋を取り出して、「坊主、これを焼いてくれ」と子供だった親父に頼んだらしい。そしてお焦げのついた焼き芋にして、兵隊さんと分けて食べたというのだ。

それが美味しくて今でも忘れられないと50年ほど前に聞いていた。さて、私がこの本を読んだ理由がある。なんで必死の自爆攻撃に、従順に参加したのか、ということだ。恨み言もあっただろう。国策だったからか。日本のためだと信じていたからか。違うだろう、というのがこの本の趣旨だ。やっと、日本も、ここまでたどり着いたということか。

証言している元兵士たちは90歳を超えて、もう終わりかけている。周囲には当時を語り合う戦友もいない。私の周囲にも戦争帰りの人が多くいた。しかしそれらの人は、わりと早く亡くなったし、田舎特有のボケていた。田舎の人はなんであんなにもボケるんだろう。それに比べると、テレビで証言していた元兵士たちは、しっかりとした物言いで、人としての訴えるものを持っていた。

だからテレビに採用されたんだろうけど。【言論が統制されている】風力発電の低周波被害を訴えるなかで、新聞やテレビは、一切の情報を伝えない。大本営発表と同じだ。【自由にモノが言えない】行政の地域対策として、被害を受けても、何も言えない空気にされてしまう。田舎のことだから村八分が怖いのだ。沈黙を背負わされる。弾圧される。

それを嬉々として、喜んで吹聴する悪党がいる。「アホよら、アホよら」と。苦しみながら死んだ被害者たちは、なぜすぐに被害を否定して私を敵視したのか。汐見文隆医師の調査の時も同じことが繰り返されたので、私には、またか、という諦めがあった。これがまだ風力被害のない、風力反対運動でも同じことが起こっていた。「私たちは風力発電には反対ではありません」というのだ。

彼らは、風力被害を受けて、被害者たちが自宅を捨てて転居したり、まもなく亡くなっていく現実を見て知っている。もちろん役場や周囲の人はそれを見ている。誰も知らん顔だよ。誰もが自由にモノが言える社会ではなかったのだ。真実を話してはいけないのか。お金だけではない。なにか被害の責任がその本人にあると思わせるトリックがある。

野鳥の会などの環境運動家は、更年期障害だ、その人の持病だと、せっせと風力被害を否定していた。マニュアル通りの言葉遣いだったよ。そして、このことは言ってはならないのか。本当の被害者なら頭をやられるから、判断能力は格段になくなっていることだろう。ロボットのように、薄っぺらな人になっている。囚人と同じだ。人格破壊されている。

結局、被害者たちは狸に騙されていたのだ。辛い風車病に、厳しい弾圧や、優しい言葉に、いいように操られて葬られてきたのだ。この本にも、道端に饅頭が湯気を立てて落ちているのを見て、不審に思いながらも、うまいうまいと食べてしまう。ところが、それは饅頭ではなく、なんと馬糞だった、というのだ。タヌキに化かされるとは、こんなことだろう。よい本でしたよ。