「お国のために」というウソ

特攻の悲劇を読むたびに、なんでこんな戦争をすることになったのかと恐ろしくなる。日本の敗戦が明らかになっているのに、なお、さらに若者を煽り立てて殺してしまう。狂気よな。この悲劇の構造は、風力発電の被害と似ていると思えてならないのだ。

地球温暖化、自然エネルギー、CO₂削減、いくつかのキーワード、スローガンを掲げて再エネ推進に、国を挙げて突き進む。成果は何もなかった。なにも良いことはなかった。各地で被害情報が飛び交うことになる。とくに風力発電の低周波被害では、重度の被害者は、自宅を捨てるか、苦しみながら亡くなるか、人生を破壊されたうえに、行政や政治、地域の人々から弾圧を受けた。

野鳥の会や「考える会」などの環境運動を自任する者が、ここぞとばかり風力被害者を黙らせた。更年期障害なんだよと。これも最初から仕組まれた罠だったのだ。この記事にあることと同じ弾圧が被害者を襲った。風力被害者は、目の敵にされて、それぞれ孤立させられて消されていった。「このことは言ってはならない」と何人もの被害者から聞かされた。

10/28日、2/7日のページにあるように、彼らは殺されたのだ。まさか自分が死ぬことになるとは分からずに、他の被害者が亡くなるたびに、「風力で死んだんやで」と聞かされた。人々は「アホよら、アホよら」と言って笑いものにした。「関係ない」とも言った。今も私にそう叫んでは笑って喜ぶ人たちが周囲にいる。彼らは操られているな、と私は感じている。

なんで人が死んだらおかしいのか? 笑えるのか? 畑地区の人たちの言葉を聞くと、いや、私の住む門前地区でもそうなのだが、人間としての大切な心が壊れていることに恐ろしくなる。人の不幸がそれほど面白いのだ。みんなでやっつけろ、というわけさ。私には起訴してまで黙らせる警察権力が襲い掛かっている。下関市のスラップ訴訟と同じものやね。

水俣病やイタイイタイ病の弾圧と同じよ。そこまでして被害者を虐待して何になるのかと感心するよ。伊豆や伊方、由良町役場に電話すると、「被害はありません」というお決まりの答えが返ってくる。誰も反論する人はいない。私一人だけか。エライ役割になったものだと思っている。

そうであっても、あの時、風力被害者たちから「何とかならないものか」「仕事にならんやないか」と泣いて頼まれたことがあって、次々と死んでいく事実を見た。弾圧の風景を見た。なんで私が黙っていられようか。海外では、地域の人たちが協力して、Stop wind turbines ! (風力発電を止めろ)と抗議運動を各地で行っている。

ドイツでもKeinwindpark(風力発電は一つもいらない)、Nein windkraft(風力発電はダメだ、いらない)と怒りのデモをしています。日本だけが風力発電の被害を訴えられないように仕組まれている。あたかも風力被害を心配している風の「考える会」などのエセ集団よ。風力被害を否定する御用学者を招いては「どうしたら風力発電が建設できるのか考えてみましょう」と繰り返している。

アホな話よな。何も考えない連中を集めては、環境運動に参加しているという魔法に酔って拍手しているのだ。「お国のために」と同じ心理がここにある。何が間違っているのか。何が正しい事なのか。こうして眺めてみると明白ではないか。由良町の風力発電21基を撤去してくれ。たくさんの風力被害者が苦しみながら死んでいった。