収容所の体験『夜と霧』

低周波被害者の会の窪田泰さんから『夜と霧』を読めば、被害者たちのことが分かってくるよ、と言われていました。なるほど、人は虐待されると動物になるのだ、と書いてある。対極にある加害者については、『自由からの逃走』を読んでいたので理解が早かった。

日本は、明治以来、ドイツから社会制度を学んでいたので、ほとんど共通の認識があると思っている。実際、ドイツ人とは話が弾む。たまにフランス人と話すと、「なんでドイツなんよ」と怒られる。明治政府が判断したことなのだ。なにもなければ、こんな小難しい本を読みふけることもなかった。

ジャーナリストたちが来て、「ヒツジにされるんよ」と言われなければ気が付きもしなかった。そして、日本だけ、「風力発電を止めろ」「風力発電はいらない」という抗議運動、反対運動がない。日本社会は確実に心理コントロールされている。地域対策されている。

だって「海外には反対運動も抗議運動もそれに関する知見もない」、と毎年のように環境省の報告書には明記されている。風力被害者は何も言えない。というか、日本人はもう社会のこと、自分のことを考えてみる余力がなくなっている。

まともな人間と、まともではない人間と。いや、まともな人なんてどこにいるんだろうか。ヴィクトール・E・フランクルでさえ、運よく解放された時、どうしてよいか人間性を失っていて分からなかったと書いている。風力発電の低周波被害者たちはどうだろう。重症の被害者は死ぬか逃げるかしかない。

散々非難されて虐待されて、変わり者にされて、亡くなると笑いものにされて排除されている。何がおかしいんだろう。私には笑えない。NHKのドキュメンタリー番組でも、ドイツ兵は笑いながら人々を射殺している。あるいはガス室で苦しみながら死ぬ風景を「素晴らしい」と讃嘆している。

日本は、そんな国と同盟していた。今も環境省や環境運動家は「ドイツに習え」と繰り返している。先日、東伊豆町から由良町の風力を視察に来た人と話していて、東伊豆町の運営している古い3基の風力発電を、今度はより規模の大きい4000~5000kwの大きな風車に建て替えるのだという計画を聞いた。

それもたくさん建設することになるそうだ。東伊豆町ではh20年ごろ、風力被害者たちが抗議運動を熱心に展開していた。彼らは弾圧されて引っ越して逃げ出してしまった。だから今は被害者はいない。もういいだろうというわけだ。行政や地域の人々に罪の意識はない。笑い話よ。

由良町では、そうはいかない。たくさんの風力被害者たちが苦しみながら死んでいった。許されることではない。